遠くでは「音色」、近くでは「ピッチ」になる? ―ハヤ・チェルノヴィンのピアノ曲《fardanceCLOSE》を聴く [Japanese ver]

2026年09月22日 00:03

《fardanceCLOSE》は2012年、ハヤ・チェルノヴィンが、長年音楽出版社ショット・ミュージックを率い、クラシック音楽界に多大な貢献をしてきたペーター・ハンザー・シュトレッカーの誕生日を祝して作曲した作品。

チェルノヴィン自身は楽譜の序文で、二つの奇妙な「ダンス」について書いている。

一つは、夜、一人で立っていると、遠くのパーティーから風に乗って届いてくるダンス。その残骸は絡まり合い、もはや何の音楽なのか判別できない。

もう一つは、逆に近すぎるダンス。重いビートが耳をその場に釘付けにし、歪んだ反復の細部しか見えなくなる。

どちらも脚では踊れない。しかし想像力とは踊ろうとする。そして「遠い/近い」という感覚そのものを迷わせる、と彼女は書く。

なるほど、そうなのだ。

この作品では「遠い」と「近い」は、単に lontano など、音量やニュアンスの違いではない。

冒頭、ピアノの最高音域に細かな音の線が現れる。

遠くにあるとき、ピッチは輪郭を失い、光や音色のようになる。ところがすぐに音域が下がり、こちらへ近づいてくると、それまで一つの気配や色彩の仄かなジェスチャーだったものから、個々の音高や音程、反復、摩擦が見えてくる。

興味深いことに、ピッチクラスを調べてみると、この「焦点が合ってくる」感覚はピッチ構造にも現れている。

 

【YouTubeで聴く : Chaya Czernowin's fardanceCLOSE (2012) Pianist - Alfonso Gómez】


冒頭の最初のフレーズには、短い中にすでに10種類前後のピッチクラスが含まれている。ところが、それらはピアノの最高音域に散らされ、個々のピッチというより、遠くの「きらめき」のように聞こえる。

そこから次のフレーズでは音域がぐっと下がり、7種類前後にピッチクラスが縮約される。

つまり、音が近づくにつれて、音域だけでなくピッチ空間そのものにも徐々に焦点が絞られていく。

低音のクラスターの提示部分を経て、そのあとに続く「線的モチーフ」のセクションでは、ピッチはさらに前景化する。Fなど特定の音の出現頻度が高まり、半音や短三度による局所的な関係も目立ってくる。遠景では多くの音が一つの「場」に溶けていたものが、近景では内部の色や摩擦を持った関係として姿を現してくるのだ。

これは、遠くの風景を望遠鏡で覗くこととは少し違う。

距離が変わることで、同じ「音」というものの存在の仕方そのものが変わる。

つまり、遠くでは音色だったものが、近くではピッチになるのだ。

そして、この「正体が現れる」という仕掛けは、別の形でもう一度現れる。

この作品では、線的な音楽を遮るように、ピアノの低音域でクラスターのようなトレモロがうごめき始める。

聴覚的には、その正体は曖昧だ。

しかし楽譜を見ると、このうごめきは無秩序な音塊ではない。両手とも五度を核とした形で記譜されている。つまり、耳にはクラスターとして聞こえるその内部に、すでに明瞭な音程構造――いわば「和音」の骨格が潜んでいる。

やがて、その中から三和音らしきものさえ予感される。

ところが、それが少しずつ三和音へ変化していくわけではない。

ある瞬間、より高い音域で、むき出しの調性三和音が何の前触れもなく打ち鳴らされる。

「何かの気配」だったものが、突然変異を起こしたように、一義的には誰にでも認識できる「物体」として目の前に現れるのだ。

ここでも変わっているのは、単なるピッチ素材ではない。

同じ音程的な関係が、あるときは正体不明の質感として存在し、あるときは明瞭な和音として認識される。その存在の仕方そのものが切り替わる。

冒頭では、音域が下がり、ピッチ空間が縮約されるにつれて、遠くの「音色」から「ピッチ」が徐々に姿を現した。

ところがここでは、正体不明のうごめきから音域が上がり、変化のプロセスを飛び越えて、突然「三和音」という物体が現れる。

連続的なフォーカシングと、不連続な顕現。

方法はまったく違うのに、起きていることにはどこか共通するものがある。

音の「正体」が、距離や知覚のあり方によって、現れたり消えたりするのだ。

さらに作品の終盤では、その「固定された物体」が執拗に反復される。しかし、その明瞭な和音には、いわば avoid note のように、そこへの同化を拒む音が食い込んでいる。それが ff で強烈に前景化されることで、音はこれ以上ないほど「近い」にもかかわらず、心理的にはむしろ聞き手を遠ざける。

《fardanceCLOSE》というタイトルは、単に遠くと近くを往復する音楽という意味ではないのだろう。

音を遠くから聞くことと、近くから聞くこと。そして、心理的な遠さと近さ。その関係が交錯する。

そうすると、そもそも「何を音として聞いているのか」が変わってしまい、何重にも知覚が捩られていく。

つまり、チェルノヴィンがこの短い作品の中で揺さぶっているのは、「音がどこにあるのか」という、我々の日常性に閉ざされた距離感だけではない。

「いま、自分は何を聴いているのか」という、知覚の基盤そのものなのだ。